雑記

リタイア後の虚無

明日から5連休が始まる。
浮かれた気分には、どうしてもなれない。
むしろ憂鬱だ。
休みが長くなるほど、何かが重くのしかかってくる気がする。

退職してから、意識ががらりと変わった。
やり切った、という感覚がある。
それまで当たり前だったもの――仕事、移動、予定、義務――
そういうものが一気に消えて、代わりに「何もない時間」が残った。

旅行にはもう興味がない。
国内は一通り回っているし、お気に入りだったコースも頭に入っている。
新鮮さがない。
長距離ドライブも、体に負担を感じるようになった。
昔は気にならなかったことが、今ははっきり分かる。

毎週土曜日の習慣で、養老公園や背割堤を歩いているが、それも完全に日常になっている。
特別な何かではなく、ただの繰り返しだ。

平日は、相場を見ている。
別に金が必要なわけではない。
証券口座の資金は、おそらく生涯使わないだろうと思っている。
それでもデイトレをやっているのは、時間を埋めるためだ。
小銭を取る。資産の目減りを抑える。それ以上の意味はあまりない。

ただ、相場が動いている時はまだいい。
問題は、休場日だ。
連休になると、それがはっきり出る。
5日間も相場が動かないと、正直かなりきつい。

やることが無いわけではない。
サーバーやルーターを組んでいるし、ログ解析や設定の調整もしている。
それでも、どこかで「これは時間を潰しているだけだ」という感覚がある。

毎日が無駄に感じる。
いや、正確には、意味が薄い。

一人きりということもあるのだろう。
誰かと共有することもなく、評価されることもなく、ただ時間が過ぎていく。
そのせいか、ふと「自分には人生があったのだろうか」と思うことがある。
何もしてこなかったわけではないはずだが、振り返ると手応えが薄い。
記録も、記憶も、自分の中だけで完結している。

ブログは書いている。
だから、この虚無感も書いてみようと思った。

これが普通なのかどうかは分からない。
単に「次」が無いだけなのかもしれない。
あるいは、次を自分で作るしかない段階に来ているのかもしれない。
ただ今は、その気力もあまりない。
とりあえず、そんな状態だ。

もっとも、これが悟りへの入り口なのかもしれない。
生前に成仏する、などと大げさなことを言うつもりはないが、執着も、欲も、他者の評価も、少しずつ剥がれ落ちている。
煩悩が消えているのか、それとも単に枯れているだけなのか。
解脱とはこういう感じなのだろうか、とふと思う。

まあ、悟ったところで明日の相場は動かないのだが(笑)

隣接する空

パラレルワールド、あるいは「多世界解釈」は、一見するとSF的な概念に見えるが、実際には量子力学の枠組みの中で真剣に議論されてきた理論の一つである。
発端は、量子力学における観測問題にある。

電子の位置や状態は、観測されるまで確定せず、複数の可能性が同時に重なり合った「重ね合わせ」の状態にあるとされる。
このとき問題になるのは、なぜ観測した瞬間に一つの結果だけが現れるのか、という点だ。

この問いに対し、1957年に物理学者のヒュー・エヴェレットは大胆な仮説を提示した。
すなわち、「結果が一つに収束するのではなく、すべての可能性が同時に実現し、それぞれが別々の世界として分岐する」という考え方である。

この解釈では、観測とは「選択」ではなく「分岐」に相当する。
たとえば、ある粒子が右に進むか左に進むかという事象があった場合、観測の瞬間に世界は二つに分かれ、それぞれの結果を含む世界が並行して存在し続ける。

重要なのは、この分岐は不可逆であり、一度分かれた世界同士が再び干渉することは基本的にないと考えられている点である。
この性質は、量子デコヒーレンスと呼ばれる現象によって説明される。

デコヒーレンスとは、量子系が環境と相互作用することで、重ね合わせ状態が事実上観測不可能になる過程を指す。
これにより、各世界は互いに独立した「古典的現実」として振る舞うようになる。

また、宇宙論の分野でも、パラレルワールドに類似した概念が提案されている。

たとえば、インフレーション理論を発展させた「永遠インフレーション」では、宇宙は一様に広がるのではなく、泡のように無数の領域を形成し続けるとされる。
それぞれの領域は異なる物理定数や初期条件を持つ可能性があり、これらはしばしば「マルチバース」と呼ばれる。

さらに、弦理論の枠組みでは、真空の状態が膨大な数だけ存在しうる「ランドスケープ問題」が知られており、それぞれが異なる宇宙を構成する可能性が指摘されている。
ただし、これらの理論には共通した課題がある。

それは「観測可能性」である。

他の世界が存在するとしても、それを直接的に検証する手段は現在のところ存在しない。
したがって、パラレルワールドは理論的には整合性を持ちながらも、経験的科学としては境界領域に位置している。

それでもなお、この概念が研究され続ける理由は明確だ。

量子力学の数式は、分岐する世界の存在を排除していない。
むしろ、自然にそれを含意しているようにも見える。

もしそうであるならば、我々が「唯一の現実」として認識しているものは、膨大な可能性の中の一つの経路に過ぎないことになる。
そしてその外側には、同じ構造を持ちながら、異なる履歴を辿った世界が無数に広がっているのかもしれない。
それらは互いに干渉することなく、ただ静かに並存している。

少なくとも、現在の物理学は、その可能性を否定してはいない。

エゼキエル戦争とは何か

近年の世界情勢の緊張を背景に、「エゼキエル戦争」という言葉を目にする機会が増えてきました。

これは旧約聖書の エゼキエル書 第38章・39章に記されている預言に由来するもので、終末論の文脈で語られることが多いテーマです。

登場するのは、「ゴグ」と呼ばれる指導者と、「マゴグの地」とされる勢力。
彼らが北方から大軍を率いてイスラエルに侵攻するものの、最終的には神の介入によって壊滅する――というのが大まかな流れです。

この記述を現代の国際情勢に当てはめる試みは古くから存在し、特に冷戦期以降は、北方の大国を指しているのではないかという解釈が広く議論されてきました。

また、「ペルシャ」や「クシュ」といった地名も登場するため、これらを現在の中東・アフリカ地域と結びつける見方もあります。

ただし、これらはあくまで象徴的・神学的な表現とする立場も強く、特定の国家や出来事と単純に対応させることには慎重な意見も少なくありません。

現代においてこのテーマが再び注目される背景には、地域紛争の長期化や国際秩序の変化があると言えるでしょう。
不確実性が高まる時代において、人々が古いテキストの中に「パターン」や「意味」を見出そうとするのは、ある意味で自然な流れなのかもしれません。

そして時折、現実の出来事の方が、記述に近づいていくように見えることがある。

重要なのは、こうした預言をそのまま現実と結びつけるのではなく、歴史的・宗教的文脈の中で理解することです。

遠い昔に記された言葉が、なぜ現代でも語られ続けるのか。
その理由を考えること自体が、今の時代を読み解くヒントになるのかもしれません。

そして時折、現実の出来事の方が、記述に近づいていくように見えることがあるのも事実です。

無収入

雇用保険の失業給付も終了し、いよいよ今月から無収入となる。

リタイア資金はそれなりにあり、おそらく死ぬまでに使い切ることはないとは思うのだが、無収入になると無意識のうちに出費を抑えようとしてしまう。
衣食住を切り詰め、さらに以前は唯一のストレス解消法であった車を乗り回すことも、できるだけ避けている。

幸い、リタイアして以降、金のかかる旅行や趣味への興味は薄れ、毎月の支出は13万円程度に収まっている。
身内への貸付があり、27年払いで毎月2万円の返済があるため、実質的な生活費は月11万円ほどだ。

ただし、今年は車検やタイヤ交換が控えているし、給湯器やエアコンなど家電製品の買い替えが発生すれば、生活費とは別枠の出費となる・・・

年金は所定どおり65歳以降の受給を考えており、あと3年は完全な無収入期間となる。
それまでに1000万円程度を消費しても問題はないはずだが、それでも無収入のまま資産が減っていくのを見るのは、寿命の砂時計を眺めているようで、意外とストレスが大きい。

さて、今後どのように心境が変化していくのだろう。

人生の「主権」を取り戻す

  1. 均一化された「労働観」への違和感

定年を過ぎてもなお「働かないのか」と問いかける声がある。
しかし、健康状態も貯蓄も、家族の形も一人ひとり違う。
個別の事情を無視して、一律に「現役の延長」を強いるのは、あまりに想像力に欠けた、乱暴な押し付けではないか。

  1. 「自由な時間」は「何もしない時間」ではない

仕事をやめて得られるのは、空白ではない。

評価からの解放: 誰かに採点されない時間。
ペースの回復: 自分の体調と相談しながら進める一日。
精神の自立: 他人の期待に応えるためではなく、自分のために生きる権利。

  1. 自分の人生を、自分で引き取る

還暦からの人生は、誰かのため、組織のためではなく、自分の人生を「自分自身の手に引き取る」段階だ。
無理をして働き続け、心身を削る必要はない。
早く身を引き、静かな時間と自由を選ぶことは、逃げではなく「賢明な決断」である。

他人の物差しで自分の幸せを測る必要はない。
私は私の人生を、私のペースで歩んでいく。
その邪魔をする権利は、誰にもない。

4.雇われない生き方への転換

定年を機に、私は「雇われる人生」を完全に終えることにした。
これからはデイトレーダーとして独立し、自分の足で立つ道を選ぶ。

なぜデイトレードなのか。
それは、この世界が最も「純粋」だからだ。

組織のしがらみがない: 煩わしい人間関係も、上司の評価も、理不尽な命令も存在しない。
場所と時間の自由: 自分の体調や生活リズムに合わせ、自宅が仕事場になる。
自己責任の潔さ: 稼ぐも守るも、すべては自分の分析と決断次第。

「暇なら働け」と言う人間は、労働=組織に属することだと思い込んでいる。
だが、私はもう誰かの歯車として時間を提供することはしない。
自分の知力と精神力を、自分自身のために、そして自分の資産を守り育てるために注ぎ込む。

マーケットというシビアな世界に身を置くことは、決して楽な道ではない。
しかし、誰かに監視され、干渉されながら働くことに比べれば、この「孤独な自由」こそが、私が求めていた還暦後の姿だ。

5.想像力の欠如と「僻み」について

世の中には、他人の健康状態に驚くほど無関心な者がいる。
私は今、坐骨神経痛を抱え、8時間座り続けることすらままならない。
不眠症によって削られる気力と戦いながら、日々を繋いでいる。

こうした切実な体調を一切無視して「暇なら働け」と宣うのは、もはやアドバイスではなく、ハラスメントだ。

おそらく、そう言う本人こそが、今の仕事から一刻も早く解放されたいと願っているのだろう。
自分が望んでも手に入れられない「リタイア」という選択肢を目の前に見せつけられ、ただ僻んでいるに過ぎない。

自分の不満を、体調に苦しむ他人にぶつけ、労働という義務を押し付けることで心のバランスを取る。
その姿はあまりに浅ましく、哀れですらある。

私はもう、あなたの「僻みの毒」を飲み込むつもりはない。
私の体調を守れるのは私だけだ。
そして、私の時間をどう使うかを決める権利も、私だけにしかない。